「今年、息子は放送委員会に入った。」
この一文を書いて、少し手が止まりました。
発達障害がある、今は小学6年生の息子。以前は不登校で、学校にいても授業には入れず、休み時間は自席に座ったまま動かなかった。
その息子が、時間に縛られた委員会活動に自分で入ることを決めました。
委員会は、毎日決まった時間に決まったことをしなければならない。時間の見通しを持つことが難しかった息子にとって、これは小さくない挑戦です。
なぜ今、それができるようになったのか。振り返ってみると、一つの流れが見えてきます。
小4の秋、支援学級との交流が始まった
小4の10月から、息子は支援学級との交流という形で、週1回から通い始めました。籍はまだ普通学級のままです。
最初は週1回だった交流が、少しずつ増えていきました。
その頃、息子が私にこんなことを聞いてきました。
「普通級に行かなくても良い?」
驚かなかったと言えば嘘になります。でも、自分で言葉にして聞いてきたことが、まず嬉しかった。「先生に話してOKをもらえたらいいよ」とだけ答えました。
その数日後、特別支援コーディネーターの先生から連絡がありました。「事後報告になってしまうのですが——息子さん、最近ほぼ支援学級で過ごされているんですが、構いませんか?」
「構いません!」と即答しました。
息子が自分で動いて、学校がそれを受け入れて、私はあとから知らされた。そういう流れでした。小4の1月頃には、ほぼ支援学級で過ごすことが息子の日常になっていました。
正式に転籍したのは、小5の4月のことです。その経緯については、別の記事に詳しく書いています。
支援学級に戻ることを選んだ日——転籍2回の記録と、息子が変わった話
交流が始まった直後の細かい記憶は、正直なところ曖昧です。支援学級のある日は行けても、交流のない日は落ち込んで行けないこともあったかもしれません。授業の中にいても、ただいるだけの時間が多かった。休み時間になっても自席から離れず、同級生と遊ぶ姿はほとんど見られませんでした。
それが、少しずつ変わっていきました。
小4の1月頃から、ほとんど休まずに登校できるようになりました。授業に出られる日が増えてきた。教室の外に出られるようになった。問題がなくなったわけではありません。波はありました。それでも「息子なりの安定」が、少しずつ育っていったのです。
安定してきた小4の3月——金管バンドのお試しに参加した
ほぼ支援学級で過ごすようになって間もない、小4の3月。学校から「金管バンドのお試し参加がある」という案内が届きました。
以前の息子なら、最初からあきらめていたと思います。
新しいことへの挑戦を、とにかく怖がっていた。うまくできなかった時の自分を先に想像してしまって、「でも、きっと僕にはできない」という言葉が先に出てきた。
だから手を挙げる前に、諦めていました。
でもあの時、息子は「やってみる」と自分で言ったのです。
誰かに背中を押されたわけではありません。私から「行ってみれば?」と勧めたわけでもない。息子が、自分でそう決めた。
その小さな一言が、私にはとても大きく見えました。
小5の4月、転籍と金管バンドの入部が重なった
お試しを経て、小5から正式に金管バンドに入部しました。
ちょうど同じ時期に、正式な転籍もありました。小5の4月——支援学級に籍が移り、そして金管バンドにも入る。新しいことが重なった春でした。学校の中に、少しずつ「ここなら大丈夫」と思える場所ができてきた頃でもありました。
金管バンドには、通常の授業とは違うスケジュールがあります。決められた時間に集まって、みんなで音を合わせていく。「いつ・どこに・どんな状態でいる」という見通しが必要な活動です。
以前の息子には、こういう「枠組み」が難しかった。
でも1年間、続けました。うまくいかないことも、思うように演奏できないこともあったと思います。それでも辞めなかった。
今思えば、この1年間が次への土台になっていました。
小6、放送委員会という選択
今年、小6になった息子は放送委員会に入ることを選びました。
放送委員会は、タイムスケジュールに強く縛られた活動です。決まった時間に動かなければならない。放送のタイミングを逃せない。柔軟に対応できる余地が少ない。
発達障害のある子にとって、「時間の見通しを持つこと」は特に難しい課題であることが多い。息子も例外ではありませんでした。
それでも、息子は自分でこの委員会を選んだ。
まだ始まったばかりで、うまくいっていることもあれば、難しいこともあります。「完璧にできている」なんて言えません。でも挑戦しています。そのことが、今の私には一番大切に見えています。
居場所があるから、挑戦できる——私が気づいたこと
小4の10月に支援学級との交流が始まり、小5の4月に正式転籍して、もうすぐ2年が経ちます。
金管バンドのお試し参加→正式入部→放送委員会への挑戦。振り返ってみると、このタイムラインには一つのパターンがあります。
息子にとっては——安定があるから、挑戦できる。居場所があるから、そこから踏み出せる。
支援学級が全ての子に同じように機能するとは思っていません。それは言えません。ただ、息子にとっては、支援学級という場所が「ここなら大丈夫」と感じられる居場所になっていた。その安心感が、外への一歩を可能にしていたのだと、今は感じています。
「できないと思っていた」と先に諦めていた息子が、「やってみる」と自分で言えるようになった。
成長の曲線が右肩上がりであることが、親として何より嬉しいことです。まだ中学の進路も決まっていないし、これからのことはわかりません。でも今、息子は自分のペースで、一歩ずつ広げています。
おわりに
支援学級への転籍を考えている方や、すでに支援学級に在籍している方に、正直に伝えたいことがあります。
転籍は、「諦め」ではありませんでした。息子にとっては、挑戦するための土台を作り直すための選択でした。
もちろん、全ての子に同じことが言えるわけではありません。うちの子はこうだった、という話です。ただ「支援学級に戻ったら、学校生活が縮んでいくだけ」とは限らない——その一例として、この記録が誰かの参考になればと思います。
息子の今については、こちらにも書いています。
発達障害の息子、中学は支援学級か普通級か——今まさに答えが出ないまま書いています
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