療育は可哀想じゃない——夫も親も反対した。それでも動いた理由

はじめに

「療育は可哀想でしょ」

その言葉を、誰かに言われたことはありますか。

夫だったかもしれない。自分の親だったかもしれない。義母だったかもしれない。あるいは、誰かの表情から感じ取ったかもしれない。

私は、言われました。一度ではなく、何度も。

それでも動きました。反対されながら、理解されないまま、一人で動き続けた時期がありました。

今日は、その話を書きます。

「療育を勧められたけれど、夫が乗り気じゃない」「周囲に反対されて、自分の判断に自信が持てない」——そういう気持ちを抱えている方の、小さな支えになれたなら、うれしいです。


「療育は可哀想」——その言葉を、誰に言われましたか

子どもに療育が必要かもしれない、と感じた時。

私が最初にぶつかったのは、専門家でも制度の壁でもなく、一番近くにいる人たちの言葉でした。

「そんな施設に行かせるの? 可哀想じゃない」

「様子を見ればいいんじゃないの。大げさよ」

「男の子なんてそんなもの。心配しすぎ」

言葉はそれぞれ違っても、根っこにあるのは同じでした。「動こうとしているあなたは、おかしい」というメッセージ。

夫が反対しているわけでも、義両親が強く否定しているわけでもない。でも、誰も一緒に動いてくれない。そういう「無関心の壁」に近い何かを感じていた時期もありました。

「私の気のせいなのかな」

そう思いかけるたびに、でも「気になる」は消えなかった。


私が感じた、その言葉の正体

「可哀想」という言葉を受け取り続けながら、ある時気がつきました。

この言葉は、子どもへの心配ではないかもしれない、と。

療育に行かせることを「可哀想」と言う人は、たいてい療育の中身を知りません。どんな場所で、何をするのか。子どもがそこでどんな表情をするのか。知らないまま、「特別な施設に行く子=可哀想」というイメージで話している。

そして——もう少し正直に言うと——「動いているあなた」が目立つことへの、居心地の悪さがあるように感じることもありました。

「様子を見ている」自分たちと、「動いている」私。その差が、何かを問いかけてくるような。

これは私の感じ方の話であって、そう言った人を責めたいわけではありません。ただ、「可哀想」という言葉を受け取る度に傷ついていた自分が、「この言葉は子どもに向けられたものではないかもしれない」と気づいた時、少し楽になったのは確かです。


タイムリミットが来るたびに、最後は私のせいになった

問題は、「可哀想」という言葉だけではありませんでした。

就学前の準備。保育園からの呼び出し。進路の岐路。

何かタイムリミットが来るたびに、「じゃあどうするの」という話になる。そのたびに、最後は不思議と「母親がなんとかする」という流れになっていきました。

反対していた人が、一緒に動いてくれることはありませんでした。「様子を見ればいい」と言っていた人が、責任を一緒に引き受けてくれることもなかった。

でも、何かうまくいかないことがあると——「だから言ったじゃないの」「お母さんのやり方が」という言葉が、どこからか出てきた。

それは本当につらかった。

今これを読んでいる方の中にも、似たような経験をされている方がいるかもしれない。「一人で動いているのに、うまくいかないと私のせいにされる」という孤独。

その気持ちは、本物だと思います。おかしくない。


それでも動き続けた理由——「ペットじゃない」

ある時、自分の中でこんな言葉が出てきました。

「ペットじゃない」

療育は可哀想に見えるかもしれない。でも、この子はペットなどの愛玩動物ではない。いつかは自立し、自分の世界を持つ存在だ。いつかはこの子も自我を持ち、人と少し違うことをすると笑われる場面が来るかもしれない。

そのとき、自分で気づいて、周囲に合わせたり、やりすごしたり、自分なりの動きができる子になってほしかった。

「守る」ことと「育てる」ことは、同じではないと気づいた瞬間でした。

可哀想にしないために何もしない、ではなく。この子が自分の力で生きていけるように、今できることをする。それが私の出した答えでした。

周囲に理解されなくても、その軸だけはずらさないでいようと決めました。


笑われたとき、自分で動ける子に

早期に療育に繋がることは、「今困っていることを解消する」だけではないと、今では思っています。

人と少し違う、というのは、これから先も続くことかもしれない。そのたびに傷つかないようにすることは、難しい。傷つく経験を全部取り除くことは、私にはできない。

私が願っていたのは、笑われたその瞬間に、自分で次の一手を考えられる子になってほしいということでした。

固まらずに、逃げる選択もしながら、それでも自分なりに動ける力。

療育で育てていけるのは「できないことをできるようにする力」だけではなく、「自分を知って、自分なりにやっていく力」でもあると、経験を経て感じています。

療育についてはじめて知りたい方はこちら:療育とは何か——対象・種類・受け方を、経験者が書きました

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あなたの判断は、間違っていなかった

「可哀想」と言われながらも動き続けた方へ、伝えたいことがあります。

反対する人が一緒に動いてくれなくても。理解されないまま一人で決断しても。「母親のせい」という言葉を受けながら前に進んでいても。

その判断は、間違っていなかったと思います。

誰かに認めてもらえなかった時間が長かった分、「本当によかったのかな」という気持ちが今もあるかもしれない。私もそうでした。

でも、動いたことは確かです。タイムリミットが来るたびに、一人でも前に進もうとしたことは確かです。

「ペットじゃない。この子には自分の世界がある」

その感覚を手放さずにいたこと。それが、今に繋がっています。

私の経験が、少しでもあなたの支えになれていたなら、うれしいです。


このブログは、発達障害・グレーゾーンの子を育ててきた一人の母親の経験をもとに書いています。医療的な判断や個別のご相談は、専門機関にご相談ください。

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