「かわいがっているだけ」なのに、なぜこんなにつらいのか——発達障害の子と同居祖父母の話

今夜も、やってしまった。

息子が自分の分を配膳して、牛乳を注ごうとしていた。ちょうどそのタイミングで、祖父がちょっかいをかけた。コップが倒れ、牛乳がテーブルに広がった。

息子はしばらく黙っていた。それから「まずい」とつぶやいて、それでも最後まで食べた。

なんで、今日もこうなるんだろう。

自分でやろうとしていたのに。集中できていたのに。うまくいきかけていたのに。

これは今夜だけの話ではない。そして——おそらく、うちだけの話でもないと思っている。

家族の反対を受けながら療育を始めた当時のことは、こちらに書きました。


繰り返される、あのパターン

同居する祖父母がいて、発達障害の子を育てているなら、一度は感じたことがあるのではないだろうか。

「なんであのタイミングで来るんだろう」という、あの感覚。

集中しているタイミングを、狙うように来る

宿題にようやく取りかかった瞬間。気持ちがやっと落ち着いてきた夕方。「さあ、やるか」と息子の体勢が整ったタイミングで、なぜか来る。声をかけてくる。横に座ってくる。テレビをつける。お菓子を持ってくる。

「一緒に食べよう」と言いながら、集中が途切れる。

ペットをあやすような接し方をする

頭をなでる、頬をつつく、「こっちおいで」と呼ぶ。息子が何かに集中していても、関係なく。悪意はないのだと思う。かわいくて、構いたくて、そうしているのだろう。

でも息子は小学6年生だ。

知識で張り合おうとする

息子が電車の話をすれば、祖父も知っている限りの知識を出してくる。息子が正しいことを言っても、「でも、おじいちゃんは……」と続く。子どもと競争したいわけではないのだろうと思う。ただ、息子と繋がりたくて、一生懸命なのだろうと。

でも息子にとっては、話を途中で持っていかれるような体験になっている。

うまくいかないと、「お母さんのせい」になる

かんしゃくが出た時。登校を渋った時。「あなたの育て方が」「もっと厳しくしないと」「甘やかしすぎだ」——言葉の形は違っても、矛先はいつも同じ方向に向く。

改善されると、「自分が見守ったから」になる

長かった不登校がやっと落ち着いてきた時のことだ。息子がほっとした様子で祖母と話していた。珍しく穏やかな空気が流れていた。そこへ祖父がのんびりと入ってきて、「俺がずっと見てやってたからだよ」というようなことを言った。何年もの積み重ねが、一瞬でまとめられた気がして、言葉が出なかった。


なぜこういうことが起きるのか

責めたい気持ちはある。それが正直なところだ。

でも同時に——悪意がないことも、わかっている。

孫のことをかわいいと思っている。それは本当のことだと思う。関わりたいと思っている。喜ばせたいと思っている。ただ、その「かわいがり方」が、息子に合っていない。空回りしている。

情報がないから理解できない、という話だけではないかもしれない。

この祖父母には、障害のある家族が身近にいた経験がある。それでも、障害を受け入れることを拒み、支援も受けさせず、「普通」にこだわり続けた。その人が社会に出てから苦労しているように見えたとしても、姿勢は変わらなかった。

「障害」という言葉そのものへの抵抗感が、根底にあるのだと思っている。知らないから理解できないのではなく、受け入れたくない——その方が、正確かもしれない。

だから、伝えても届かない。根が深い問題だと思っている。

「悪意がない」ということが、かえって声を上げにくくする。

悪意があればまだ言いやすい。「それは違う」と言える。でも「かわいがっているだけ」の行動に対して、「やめてほしい」と言うのは難しい。

「そんなに神経質にならなくても」と返ってくることが目に見えている。

だから黙る。あるいは、その場を離れる。

それが、積み重なっていく。

孤立を感じた時、相談できる場所についてはこちらにまとめています。


自閉症の子には、特にこたえる理由がある

息子がなぜあんなに引きずるのか。以前は、少しわからなかった。

「もう終わったことなのに」「気にしなければいいのに」と、心のどこかで思っていたこともある。でも、息子の側で何が起きているかが少しずつわかってくると、「引きずる」のではなく「そうなるだけの理由がある」のだとわかってきた。

一度集中が途切れると、そこに戻るまでに時間とエネルギーが必要になる

スイッチを切られるような感覚、と表現した人がいた。自閉症の特性として、一つのことに深く集中する力がある一方で、「切り替え」が難しいことがある。集中していたところから引き剥がされると、同じ状態に戻るだけで、それ相応のエネルギーが必要になる。

宿題のやる気をようやく出したところでちょっかいをかけられると、また一からやる気を立ち上げなければいけない。大人が思う以上に、それは消耗することだ。

何が起きているかを整理する前に、感覚として先に来てしまう

祖父が悪いことをしているわけではないと、息子もどこかで感じているかもしれない。でも「崩された」「ちょうど今じゃなかった」という感覚は、言葉より先に来る。それを上手に言語化して「今はやめてほしい」と伝えるのは、大人でも難しい。子どもであればなおさらだ。

だから、黙る。あるいは、泣く。あるいは、その場でかんしゃくになる。

周りから見れば「大げさ」に映ることも、息子の中では相応のことが起きている。

思春期になるとこの影響はより複雑になります。こちらの記事も合わせてどうぞ。


親として、正直に書く

家の中に、味方がいないと感じる夜がある。

息子の特性を説明しても、「そんなふうに考えすぎるから」と言われる。やめてほしいと伝えても、次の日には同じことが繰り返される。

長年かけて積み上げてきた関わり方、読んできた本、試してきたこと——それが「お母さんの努力のおかげ」と言われたことは、ほとんどない。うまくいかない時だけ、「育て方」という言葉とともに名前が出てくる。

それが、虚しい。

将来のことも考える。

成長した息子が社会に出た時、今よりずっと複雑な人間関係の中に入っていく。善意のまま踏み込んでくる人間に遭う場面も、きっとある。善意を装った誘い、気づかないうちに利用されること——そういうことへの心配が、今の日常の積み重なりと重なって、重くなる夜がある。

誰かに言えているか、と聞かれたら——言えていない、という方もいるのではないかと思う。

「悪意がないのに、つらいと思うなんて」と、自分で自分を責めてしまう。

でも。つらいものは、つらい。それは間違っていない。


この記事で言いたかったこと

解決策を、私は持っていない。

少なくとも今は。きれいに片付くような答えを、まだ見つけていない。ただ、こういうことが起きているということを、まず書いておきたかった。

この問題は、あなたのせいでも、お子さんのせいでもありません。
家の中で孤立しているように感じているなら——それは正直な感覚です。
次の記事で、もう少し続きを書こうと思います。


この話には、続きがあります。
善意ではない、意図的な妨害について——発達障害の子の親が「祖父母」に疲弊するとき——善意じゃない干渉も、確かにある

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