気づいたら、息子の部屋のドアがいつも閉まっていた。
いつから、だろう。はっきりした日は思い出せない。ただ気づいたら、廊下を歩くたびに閉まったドアがあった。
少し前に部屋を模様替えしていた。その結果、ドアを閉めるとPCの画面が外から見えない配置になっていた。そして息子は、ドアを閉めて使うようになった。
それだけのことだ。悪いことをしているわけじゃない。自分の部屋で、ドアを閉めているだけ。
でも私は、そのドアの前で少し立ち止まるようになっていた。
息子の部屋のドアが、いつも閉まるようになった
思春期の入口に差しかかった子どもが、自分の空間を守りたくなる。それは自然なことだと頭では分かっている。
プライバシーへの意識が芽生えること、自分だけの場所を持ちたいと感じること——これは発達の自然なステップで、むしろ成長の証だと専門家も言う。発達障害の子の思春期の変化についてはこちらにも書きました。
分かっている。分かっているんだけど。
閉まったドアの前に立つと、なんとなく、遠くなった気がした。
「何をしているか」より「どんな表情をしているか」——私が本当に気になること
正直に言う。
私が気になっていたのは、「息子が何をしているか」ではなかった。
ゲームをしていても、動画を見ていても、それはどうでもいい。問題はそこじゃない。
私が見たかったのは——息子の表情だった。
楽しそうにしているか。何かに熱中しているか。それとも、ぼんやりしているか、沈んでいるか。
画面の内容より、その画面を見ている息子の顔が見たかった。感情の状態を、そっと確認したかった。
監視したいわけじゃない。管理したいわけでもない。ただ、息子が今どんな気持ちでいるか——それだけが知りたかった。
ドアが閉まると、それが見えなくなる。それが、私には少し寂しかった。
暖簾という選択——完全に遮断しない関係性を選んだ理由
模様替えを提案したとき、息子に伝えた。
「暖簾だけにしてほしい」
ドアを取り外せとは言わない。いつでも好きに閉めていい。でも、普段は暖簾の状態でいてほしい。
それが私の出した答えだった。
暖簾は、完全には遮断しない。音も、気配も、うっすら伝わる。廊下から覗こうと思えば覗ける。でも、圧迫感はない。お互いの存在を感じながら、それぞれの時間を過ごせる。
「部屋の環境そのもの」を調整するというのは、一つの支援の視点でもある。「見張る」のではなく、「自然につながっていられる空間をつくる」こと。それは、思春期の子どもと親の関係を保つうえで、意外と有効な方法だと思っている。
「何をしているか確認したいから」ではなく、「どんな表情をしているかを、そっと見ていたいから」——そのために暖簾を選んだ。
思春期の入口で、親が決めること
息子は、私の提案を受け入れてくれた。
嫌がるかもしれないと思っていた。「なんで」と聞き返されるかもしれないと思っていた。でも息子は、特に抵抗せず、「うん」と言った。
その「うん」が何を意味するのか、私には分からない。納得したのか、とりあえず受け入れたのか。
ただ、今はそれでいい。
思春期の入口で、親が決めることがある。完全に子どもの意志に委ねるでも、完全に管理するでもない、その間のどこか。「暖簾」は、そういう場所に置いたものだった。
息子の自立を大切にしたい。でも、まだ見えていたい。その両方が正直なところで、どちらかを捨てることが私にはできなかった。
息子が自分で中学進路を決めた日のことを書いたとき、息子が少しずつ「自分で決める力」を持ち始めていると感じた。それでも今は、まだそばにいたい。その気持ちと、どう折り合いをつけるか——暖簾は、その折り合いの形だったのかもしれない。
この選択が正解かどうかは、まだわからない
暖簾にして、どうなったか。
息子は今も、たまにドアを閉める。完全に開けたままにすることは、ほとんどない。でも暖簾の状態のときは、廊下から気配が伝わる。私もそれで少し安心する。
正解かどうかは、今も分からない。
思春期の子育てには、「これが正解」と言い切れることが少ない。やってみて、子どもの反応を見て、また考える。その繰り返しだと思っている。
ただ、一つだけ決めていることがある。
答えを出すより、関係を続けることを選ぶ。
ドアを完全に閉めさせないことより、「何かあったら話せる」と息子が感じていること。それが今の私には大切で、暖簾はその象徴だった。
見えているかどうかより、つながっているかどうか。
それだけのことを、あの薄い布一枚に込めた。
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このブログは、私自身の経験をもとに書いています。同じ状況でも、お子さんの特性やご家庭によって合う方法は違います。一つの参考として読んでいただけたら幸いです。


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